岩手県指定有形民俗文化財「久慈地方の牛方関係資料」~塩の道と牛の角突き~
「久慈地方の製塩の歴史」
太平洋に面した久慈地方では、かつては製塩が盛んに行われていました。市内の遺跡からは製塩に関する遺物が出土しています。縄文時代晩期(約2,500年前)の大芦I(おおあし1)遺跡からは、底が尖った形状をした製塩土器が出土しています。製塩土器は、海水を煮詰めて塩を精製するために用いられた土器で、使い捨てであったためか破片だけが出土することがほとんどで、完全に近い形まで復元できた個体は大変貴重です。また、平安時代(約1,100年前)の中長内(なかおさない)遺跡からも製塩土器の破片が出土しています。塩は人体には欠かすことのできない鉱物であり、その生産はいつの時代においても必要とされていたことが伺えます。

大芦I遺跡出土製塩土器

中長内遺跡出土製塩土器
「塩の道と牛方」
藩政時代(江戸時代)、久慈地方で作られた塩は重要な産物として流通し、南部藩の主要道路であった沼宮内廻野田街道(ぬまくないまわり のだかいどう)を通り、山根~平庭高原~葛巻~沼宮内を経由して、盛岡や鹿角方面まで運ばれていきました。この塩を輸送した街道のことを通称「塩の道」と呼んでいます。そのルートの大部分は山岳地帯であり、起伏の激しい山道を大量の荷を積んで往来するには、鈍足ながら粘り強い性質である牛が適していました。茅(かや)で作られた「塩かます」に塩を詰めて牛の背に乗せ、5~7頭の牡牛で隊列を組み、「牛方」が牛の群れを引率しました。この牛の隊列を「ハズナ」と呼び、隊列のリーダーとなる一番強い牛を「ワガサ」と呼びました。牛たちはリーダー牛であるワガサに従う性質があり、牛方はワガサを操ることで牛の群れ全体を統率することができました。
かつての塩の道の沿線には、牛方の宿であった馬場家跡地に建つ塩倉「旧馬場家板倉」や、「合戦場一里塚」、「奥清水のベゴ泊り場跡(復元)」など、関連する文化財が残されています。

旧馬場家板倉

奥清水のベコ泊り場跡

「みはらあきら」氏による塩の道想像図

塩かます

合戦場一里塚
「牛の角突き」
最も強いリーダーとなる牛「ワガサ」を決めるため、牛の角を突き合わせて優劣を決める習俗がありました。「角突き」「突き合わせ」「ベゴ突き」「ベゴ相撲」などと呼ばれ、この角突きを行わないと、牛たちは道中で争い始めて危険であり、運行に支障を生じる恐れがありました。牛の隊列を安全に率い滞りなく荷を運ぶためにも、角突きは重要な習俗でした。
現在、平庭高原で行われている「平庭高原闘牛大会」は、この牛の角突きをルーツとしています。現在のような形の人に見せるための闘牛大会は、昭和35年(1960)に行われたとの記録があり、本格的に観光行事として取り入れたのは昭和58年(1983)からとなります。東北地方では唯一となる平庭高原闘牛大会は、年4回、「わかば場所」「つつじ場所」「しらかば場所」「もみじ場所」と称して開催され、多くの観客で賑わっています。平庭の闘牛においては牛の勝敗を決しないという大きな特徴があり、両者優位の状態で、牛を操る勢子が割って入り、引き分けにします。これには、牛に負け癖がつかないようにするという理由があります。
平庭の闘牛大会は「牛の角突き」として、平成28年5月2日付で久慈市無形民俗文化財に指定しています。

平庭の闘牛大会
「久慈地方の牛方関係資料」
「久慈地方の牛方関係資料」は、「塩の道」(久慈・野田街道)によって、岩手県沿岸部から内陸部に塩や海産物を運ぶ際に、牛を引き連れた「牛方」が使用した用具類です。
牛方の用具は主に、1.「牛方の身支度用品」、2.「牛の荷役用具」、3.「牛の飼育用具」から構成されます。「牛方の身支用具」として、牛方が身につけた「笠」・「みの」・「つまご」などがあり、「牛の荷役用具」は荷物を運搬する際の牛の装備品などです。「牛の飼育用具」は、物資の運搬に使役する牛たちを育てるために必要な用具です。
牛を使って物資を運搬した牛方は、他地域との物資の交易とそれに付随して様々な生活文化をもたらしました。この牛方の活動に関わる資料は、物資を運搬した街道に関わる交通史、運搬した塩や鉄等に関わる産業史、飼育した牛に関わる畜産業史など、人と牛の関わりを含めた歴史・文化を伝える貴重な資料であり、「久慈地方の牛方関係資料」として、牛方の道具165点が令和7年11月7日付で岩手県有形民俗文化財に指定されました。
1.牛方の身支度用具
2.牛の荷役用具
3.牛の飼育用具
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教育委員会 文化課
〒028-0051 岩手県久慈市川崎町17番1号
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更新日:2026年06月12日